ここに地終わり海はじまるポルトガルの旅 2018 Day3 ペニシェ

テント泊の開放感というのはすごい。時期的なこともあるのか、キャンプ場は人もまばらなので、ぐっすり眠れた気がします。が、相変わらず胃の調子が悪い。前夜買ったまま放置してあったパンと生ハムを口にしようにもどうにも飲み込めなかったので、キャンプ場を撤収して北上することにしました。

のんびりと一路北へ

朝起きてテントを見て見ると多少夜露に濡れている感じがするけど、湿度は低いので干して乾かすそのままバイクパッキングのパックに片付けました。奥の屋根が緑色の建物はバンガローで、その向こうのオレンジ屋根がサンタクルスの町とビーチ。

久しぶりのテント泊で張り方が相当甘かった笑

サンタクルスのキャンプ場をチェックアウトして走り出す前に、前夜行ったスーパーマーケットで水などを調達することにしました。時間は少しゆっくりめのAM9:30。水とバナナと塩、それにレッドブルを購入。店舗内にテナントとして入っているパン屋でコーヒーをオーダー。塩は、Googleで調べたら胃もたれの時に塩やお味噌汁がいいと目にしたのでついつい買ったもの。

バナナを無理矢理押し込んでから出発。サンタクルスの町を出てしばらくは国道N247合線を走ります。国道といっても交通量は少なくて走りやすいです。途中から道を逸れて田舎道へ。乾燥している地域だからなのか、あまり川を目にすることはないですが、この道は珍しく川沿い。

ただ、川沿いを上流に行くということは山の奥に進むということだよね・・・。わかってはいたもののルート変更はしなかったので、この先のマセイラという町から先は人気のない山道に入りました。

前日に続き舗装されていない悪路。走っているうちに路面から突き上げる振動のせいか、また胃がだんだんムカムカして走る気分にならなかったので、この日は距離を稼ぐのを止め、ポタリング気分で町や村で休みながらのんびり行くことに予定変更!

サンタ・バールバラという村を通ってロウリニャンへ着く頃には、ちょうど昼になっていたので、町の中心を散策がてらフルーツショップでバナナと桃と水を購入。町の中心の広場のベンチで食べました。1時間くらいゆっくりした後、あまり無理はしないように、ここから20kmくらいのペニシェという町にあるキャンプ場を目指しました。

フルーツを食べたベンチからの眺め。日差しは強いので木陰がありがたかった。

ロウリニャンからペニシェまでは起伏も少なくて、ペダルを漕ぐ足が重かったのに、割と早い時間に目指すキャンプ場に到着。自転車を降りてレセプションに行くと、パスポートを見せた受付のおばさんが「ヤポーネ!、ヤポーネ!」と楽しそうな顔をして迎えてくれた(笑) 日本人が珍しいのかな。

キャンプ場の説明を一通り聞いていると、「裏側にビーチに抜ける門があるのでぜひ行ってきたら?」と言われたのだけど、体調のせいであまり元気がなく、すぐにテントを張ってシャワーを浴びてから少し横になることにしました。なにより有り難くて意外だったのは、シャワーで熱いお湯がたっぷり使えたこと。一年前のイギリスなんてホテルでもお湯がまともに出ないところもあったのに。

この辺は地面が乾いた土

夕方、胃に優しい寿司をYelp!で探し求めてペニシェの町に出ることにしました。海外で和食を選んだのは人生初。その前にどうにも胃が苦しくなってきたので薬局に寄って胃薬を買うことにしました。

薬剤師のお姉さんに胃が重くて気持ち悪いと伝えると、「これでComfortableになるわよ!」と薬を出してくれました。これをすぐに飲んで目的の寿司店に入りました。

ペニシェを観光することもなく寿司店に直行

晩ご飯はこのお味噌汁を一杯と鉄火巻きを2つだけ口に。何気にお味噌汁が出汁がきいていて美味い。こういう時に和食って本当にいいですね。

聖地巡礼とテンプル騎士団

テンプル騎士団の話の続き。騎士団という組織で有名なものは、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団。

5世紀頃から西ヨーロッパのキリスト教徒の間で大流行した聖地エルサレム、ローマ、サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。聖地に向かう巡礼路の全てが安全なわけはなく、粗末な巡礼服で聖地を目指す巡礼者は、絶えず強盗や殺人などの被害にあっていたそうで、これを見兼ねて巡礼者の警護に立ち上がったのが、フランスの騎士ユーグ・ド・パイヤン。エルサレムに向かう巡礼路の警護・パトロールをするために、最初はたった9人で警護を始めたのがテンプル騎士団の始まりで、これが評判を呼んでエルサレム教会やエルサレム国王から手厚い援助を受けて、ソロモン宮殿に宿舎も与えられたそう。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」。対して聖ヨハネ騎士団は、巡礼路上の主要な場所で病院を運営して、巡礼者を治療したのが誕生のきっかけ。

ポルトガルがあるイベリア半島 でいうと、半島の北部を横断するサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路は、フランスの修道院が宿泊施設や救護施設などを整備し、騎士を勧誘して護衛に当たらせた結果、スペインやポルトガルのレコンキスタを担う存在となり、さらにこの一部がテンプル騎士団に合流してどんどん組織が大きくなるとともに、テンプル騎士団の創立メンバーがお金と団員集めにイベリア半島に来た時、イスラム勢力から奪還した土地はすべて自分たちのものにしてよいと国王がお触れを出したことで、テンプル騎士団はスペイン・ポルトガルで財産の大半を築き、これによって組織がどんどん強大化、東方へ勢力を広げて十字軍の中枢を担う存在になった最盛期には、1.5万人にもなる組織になっていたというのが史実だそう。